ドゥルーズの哲学論

 

思考は哲学者の意識を超えている

認識するとは、判断を下した時に確立され、認識は所与の経験を超えでる(ヒューム


何故、昨日は太陽が昇ったという観念は、一昨日も太陽が昇ったという観念と結びつくのか

何故ほかの観念と結びつかないのか、何故鶏の朝の鳴き声という観念と結びついて、鶏が泣くから太陽が登るという観念を形成することは無いのか?

連合説は観念が連合されているという事実を説明しているだけで、あれよりはむしろこれが、選択されるのか、その原理を少しも説明できていない(ベルクソン


ふたつの観念が想像の中で恣意的に接合される時でさえも、ふたつの観念を比較するのは的を得ていると、我々が判断することができるようにさせる、あの特殊な事情


事情がこの、あれよりはむしろこれが、を説明する(ドゥルーズが論述の対象となっている哲学者によって意図的に概念として使われていなかった言葉を概念化して提示している)


哲学者本人ですら明晰に意識されていないその問いを描き出すことが哲学研究の使命


コギトの真理が第一真理であるには、自我、思考、存在が何を意味しているかを知らなければならない


思考のイメージはこのような暗黙の前提を暴き出すための道具立てである


自由間接話法の多用することは、この思考のイメージに到達するために導入された方法

哲学とは、複数の合成要素(概念)を想像することを本領とする学問分野 コギトの例


概念は内在平面上での諸関係によってのみの概念であり、相対的であると同時に絶対的である


概念というのは、実はお互いに一致しない断片のような合成要素を無理矢理凝縮することによって成立している


それは内在平面(思考のイメージ)(語られたことの前提)のおかげである


カントの批判

これだけでは私の存在がどのようにして規定されるのか分からない→時間という存在に置いてだ

そうすると、能動的自我と、受動的自我の間にはギャップが生じる。規定作用は時間の中で実現するのだから。

従って、私はひとつの受動的自我として

規定されるのだが、その自我にとっては思考する私は"他ならぬもの"である

よってコギトに亀裂が生じる

↑概念を創造する唯一のやり方


あらゆる概念は署名されている、よって、自由間接話法的ヴィジョンによって、新たな概念を創造される


それぞれ全く別の問いの系譜を追っているので、一つの真理に向かっていくのでは無く、それぞれの問いと概念を展開していく


ドゥルーズはといの系譜に自らを定位させた


哲学はなんの役に立つか?

自由な人間の姿を作ること、権力を安定させるために、神話(偽の無限)と魂の動揺(不安)を必要とする全てのものを告発すること


自然は、慣習、約束事、発明とは対立しないが、神話と対立する


合理論哲学 経験から乖離した原理が哲学の基礎に据えられている


ドゥルーズは保守的な哲学たる経験論という硬直しきった偏見を指摘


人間的自然と呼ばれているものは生成の結果として現れるということ従って、人間について考えるにあたり、それを前提にはできない


精神(単なる諸処の観念の集合)だが、諸観念が、一定の原理に従って連合された時、恒常性と一様性を持った体系となる。観念連合がある臨界点を超えた時、精神という状態を超出した主体となる

↑合理論が失った哲学


合理論は主体を前提とする、それに対し、経験論は主体そのものの発生を問う

これらのことから合理論こそが保守的である


精神は自然ではない、精神には自然はそなわっていない。

人間本性は観念連合の効果として発生する

↑哲学がそれまで前提としてきた諸観念の変化の可能性を問う哲学にほかならない


カント哲学はヒュームに立脚している

↑いかなる因果性も疑いうる、主体も自然も理性も前提としない

しかし、カントによれば、現象の中に主観によって看取しうる一定の法則がそもそも存在しなく、観念連合自体が存在しない


カントによるヒューム批判は妥当だが、カントは問いかけを辞めてしまった問いがあった

これは、主体の生成へと向かう問にほかならない


経験の可能性の条件を問うことが超越論的探求である

アプリオリな表象→我々が何かを認識するのに先立って有している表象(時間と空間、カテゴリー)

我々の経験は必然的にこれらの表象に従う

↑超越論はこの必然を問う


ドゥルーズ

カント→フッサールサルトル

の超越論的領野の変化を否定

↑カントとおなじ思考方法の中にあり、超越論的統覚を色々取り換えただけ

↑意味の論理学によると、基礎づけるものが基礎づけられるものに似ているなどということは有り得ない


発生への視点という欠落した問を

超越論哲学の可能性を引き継ぐとともに、経験論哲学によって補う→超越論的経験論


カントは自我、超越論的統覚を想定しているという点で批判された

 

無人

我々は世界のほんの一部しか目にしていない。にも関わらず、世界が存在しているのはなぜかと言えば、他者のもらたす時間的 空間的な効果の中に身を置いているから


他者→対象の対象性を保証する構造

即ち、他者をかいた所ではそもそも自我を想定することすら出来ない

自我はアプリオリに存在する基体ではない

自我とは私にとっての過ぎ去った対象である。

自我があって外界のものを対象化できるのではなく、対象化作用の獲得によって初めて自我が発生する

他社がもたらす最も根本的な効果とは"私の意識とその対象の区別"

他者がいなければ、意識とその対象はもはやひとつでしかない


無人島に他者が現れることによって超越論的哲学が再構成される

 

続く…

 

 

 

 

何故、子供を産むのか

何故、子供を産むのか。私達が真に考えるべきことのひとつだろう。

このブログを書く事で、私の個人的な見解を示すと共に、私自身が今後考えるべき内容を見つけていきたい。まず、この題材を取り扱う上での今現在の私の考えを示す必要がる。

皆さんは、”反出生主義”と言うものをご存知だろうか。私の反出生主義への解釈だが、端的に内容を説明すると、”人間社会を生きるには余りに苦痛が多く残酷であり、子供を産む事は新たな苦しみを産む行為である為、行なうべきではないと言う思想”である。

結論から言えば、私は現段階でこの思想に同調する。しかし、この思想の論理に同調したところで、机上の空論と実論では大きな隔てがあり、安直にこの理論が真であるとは言えない。

そもそも世の中の事象において、真な事というのは我々人間に定められるものでは無く、ニーチェ(19世紀ドイツの哲学者)の言葉を借りれば、事実と言うものは存在せず、存在するのは解釈だけなのだ。

そして、この思想を、生を肯定する人に押し付ける事は紛れもない暴力であるとも思う。

反出生主義の思想は、人生は生きるに値しない苦しいものである。と言う前提のもとに成り立っている。悲観的な考えである事は認めざるを得ないが、私はこの前提を概ね正しいと思う。

人によるが、実際人生は不条理で苦悩に溢れていると私は解釈している。

勿論私とは異なった解釈をする人は大勢いるだろう。そこに関しては認めざるを得ない。

しかし、その事実自体が世の中の不条理さであり、劣等感の根源であり、この問題を考えるべき要因でもある。(ここでの劣等感とは、ある意味で正の感情である劣等感では無く、負の感情である劣等コンプレックスの事である。)人間が皆、同一の個体として生まれるのであれば、出生すべきか否かは簡潔に考えることが出来るであろうが、実際はそうではない。

生まれてくる人間には、出生地や容姿、生まれつきの病気、家庭環境、裕福か否かなど、実際は大きな差がある。そしてこの差は、生まれた本人の努力や意志に関わらず、完全なランダム要素である。私はこのランダム要素という点が世の中が苦しみで溢れる大きな要因の一つであると考えている。(ここでは論点が大幅にずれるので論じない)子供はこの世の中に産み落とされなければ苦しみを感じる事はない。はたして子供は出生を望むだろうか。(実際、インドでは自分を生んだ親に自分を生んだことに対して訴訟を起こすケースがあった。)

現状として、子供は生まれ続けている。

理由としては、世の中には苦しみが溢れているが、それでも生きていて良かったと思う瞬間がある事などを含め、生まれた子供が幸せな人生を歩む可能性を信じている事があげられる。

それに関しては至極真っ当な意見であり、肯定すべき事であると思う。

しかし、そこまで考えて論理的な議論の末に出産を決意する親はどれほどいるだろうか。

多くの親が子供を産む理由は、悲しい事だが、もっと安直且つ愚直なのが現状だと私は考える。ひとつ挙げられる理由としては”自分の持つエネルギーの発散”である。

バタイユ(20世紀フランスの哲学者)の思想によると、”人間は理論や道徳によって子供を産むのでは無く、親自身の余ったエネルギーの発散などという理由で子供を産む”らしい。

この思想で注目すべき点は、親は子供の幸せの可能性以前に、自分のために子供を産んでいるという事だ。例えば、子供を育てること、家族を構成することの喜びを感じるためや、育児などの手間がかかる事におけるエネルギーの発散のためである。

即ちこれは、親のエゴであると私は解釈する。そしてこれは、出産の善悪に関わらず、親自身が認識すべき事であると考える。親がこの解釈をせずに子供を産んだ場合、親子関係や教育に関して避けられない問題に衝突するであろう。

”産んであげた””育ててあげている””親は神だ”などといった類の暴力は親が自分のエゴで生んだという解釈をしていないが故に生じる暴力であると私は思う。私の実体験でもあるのだが、多くの場合、子供には抵抗、反論する術は無い。椅子にくくりつけられ、暴力を振るわれるのと同じである。

また、この類の親は往々にして教育に対しても過ちを犯す。

子供を自らの所有物、もしくはコントロール可能なものとして認識しているため、子供のためという前提を振りかざし、思想や趣味にまで介入しようとする。子供のことを尊敬すべき対等な一人の人間として認めているならば、このようなことにはならないと思う。

そして、子供は親に従順である必要は無いというのが私の考えである。

理由としては、もし、親が本当に子供の幸福を願っているのであれば親の言う事よりも、自分のやりたい事をやるべきであるし、親が自分のエゴで従順を強制してくるのであれば、それはそれで拒否すべきであるからだ。

年齢的な大人子供に関わらず、人間は自らの考えや行動を自分で決定すべきであり、その決定に対して責任を負うべきだと私は考える。そして、他人の決定に介入することはいくら親であったとしても、暴力に他ならない。

話が脱線してしまったが、構成を考えてから書いていないので許容していただきたい。

要するに出産の善悪、有無に関わらず親は自分自身のエゴを認め、子供を尊敬すべき対等な一人の人間として認めるべきであり、子供は親に従うのでは無く自分で意思決定をし、それに対して責任を負うべきというのが現段階での私の思想である。

これ以降は幸か不幸か、実際に生まれてきてしまった人間に対して書こうと思う。

皆さんは、”何故、生まれて来てしまったのだろう”という反出生主義の思想の根源である思いを抱いたことはあるだろうか。人生は苦悩で溢れており、生きるのに値しないという前提からなる反出生主義を扱うにあたり、真に考えるべきは”自殺について”だろう。

まずは自殺の善悪についてだが、自殺には善も悪も無いというのが私の考えである。

しかし、現状では自殺は良く無いものとして世間的には認識されている。

その主な理由として、3つ程挙げられる。

”生きていればいい事があったのに勿体ない論””自殺は他の人が悲しむ論””道徳的にダメ論”

この三つだ。

そもそも、一つ目の”生きていればいい事があったのに勿体ない論”に関しては、自殺をする人についての考察が足りないと私は思う。自殺を考える人が往々にして、これからも生きていくより、今死んで無になった方が苦しまなくて済む合理的な判断だと意識的、無意識に関わらず、自ら選択している事を考慮すると、自殺を否定するのには貧弱すぎる意見だと思う。

二つ目の”自殺は他の人が悲しむ論”は確かに事実であり、一見正しいように見える。(村上春樹ノルウェイの森を読むとイメージしやすい)私もこの事実には賛同するが、ここでショーペンハウアー(19世紀ドイツの哲学者)の”この論理で自殺をやめたところで、この自殺志願者は他人の為に苦しい人生を生かされている事になる。”と言う思想を踏まえると、これ自殺を否定する決定的な意見だと言えないだろう。

三つ目”道徳的にダメ論”は私から言わせれば論外である。全く論理的ではないし、宗教が暴かれ、神や天国、地獄などが妄想に過ぎない事が明確である現在では、宗教的道徳など、何の役にも立たない。

こうしてみると、自殺は世の中の苦しみを抱えて生きる人にとって合理的なように見えるが、何故、自殺を多くの人が思いとどまるのか。

それは、肉体的苦痛への恐怖感だと私は考える。単に、痛いから、苦しみを伴う恐れがあるからだ。

自殺に関しての考察はこの辺りで終わろうと思う。

夜も深くなって来たのでこのあたりでこの記事を終わるが、出生、自殺、教育など、皆さんも是非、自分で考えてみて欲しい。